『ケアする側も救われる』物語から読み解く、ユマニチュードと相互ケア
- 【NPO法人CORUNUM】 HP事業担当者
- 22 時間前
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こんにちは!NPO法人CORUNUMです。今回はコミュニケーション・ケア手法の「ユマニチュード」を紹介します。支援者と被支援者の相互ケアについて、3つの物語の視点を踏まえながら解説していきます。
目次
1, ユマニチュードとは?
2, 『夜と霧』の視点 3, 『大豆田とわ子と三人の元夫』の視点
4, 『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』の視点 5, まとめ
みなさんは「ユマニチュード」という言葉をご存知でしょうか。ユマニチュード(Humanitude)とは、「人間」(Human)「~らしさ」(-tude)を掛け合わせたフランス語の造語です。医療・介護のケアの現場において「人間らしさを取り戻す」という意味で使われています。
「取り戻す」というからには、今は失っている状態なのだと解釈できます。では、介護の現場において「人間らしさを失う」というのはどういうことを指しているのでしょうか。
例えば、相手が話している途中、言葉に詰まったときに先回りして話を進めたり、高齢者は手先の細かい作業ができないと決めつけて手伝ってしまったり…といったことが考えられます。
一見、悪いことのようには感じませんが、「こども扱いされている」「尊厳を傷つけられた」と感じる高齢者の方もいるのです。自分事として考えてみると、話している途中に勝手に話をまとめられたり、できることをできないと決めつけられるのは嫌ですよね。
一個人としてではなく「高齢者」と一括りにして、個性や多様性を捨象し「定型化した対応」が取られると、やるせなさを感じるものです。
ユマニチュードは、介護現場でこのような事例が多くみられた40年程前に考案された考え方です。「見る」「話す」「触れる」「立つ」という四つの要素で構成されます。これらの要素を用いることで、単なる「事務的な介護支援」ではなく、支援者と被支援者の対話を軸として「相手は人間である」ということを表現するのです。
このようなユマニチュードには、ケアされる側のみならず、ケアする側の心も癒す「相互ケア」の側面があると言われています。ユマニチュードと相互ケアという不思議な現象を、私が大好きな3つの物語の視点から深掘りしていきましょう。
ヴィクトール・フランクルは、『夜と霧』でナチスの強制収容所という極限状態という、人間が「物」や「番号」として扱われる生きる意欲を失った人々を描きました。
この状況でフランクルは周囲で最後まで希望を捨てなかった人の共通点を見い出しています。それは、自分を待っている誰かや、果たすべき使命を「見つめていた」人々でした。
ユマニチュードの基本は「あなたはそこにいる」と認めることです。フランクル自身も、愛する妻を想い、心の中で対話することで精神の自由を保ちました。これはユマニチュードの「見る」「話す」という要素を、心の中で自分自身や不在の相手に対して行っていたと言えます。
介護でも同じことが言えます。支援者が相手を「高齢者」や「認知症の患者」という記号ではなく、一人の「人間」として見つめる時、支援者自身の内側にも「人間性」が立ち上がります。相手を人間として扱おうと奮闘するプロセスそのものが、支援者を事務的な労働から救い出し、フランクルが説いた「人間の尊厳を持ち続ける強さ」を満たしてくれるのです。

この物語は三人の元夫をもつ一児の母であり社長の大豆田とわ子を軸に巡るヒューマンドラマです。この作品の魅力は、主人公たちが皆どこか「欠落」している点にあります。完璧な人間は一人も出てきませんが、彼らは互いの不完全さを否定せず、ゆるやかに繋がり続けます。
このドラマで印象的なセリフがあります。
「ひとりでも生きていけるけど、まあ、寂しいじゃん。寂しいのは嫌だけど、でもそれで誰かと二人でいたって自分を好きになれなかったら結局ひとりだしさ。好きになれる自分と一緒にいたいし。ひとりでも幸せになれると思うんだよね」
ユマニチュードには「立つ」という要素があります。これは身体的な自立だけでなく、尊厳を持って生きる姿勢としての自立も指します。ドラマの中では、とわ子が「一人でも生きていけるけど、寂しい」と吐露していました。私は自立とは「誰にも頼らないこと」ではなく「信頼できる誰かの前で、弱さを晒せること」を意味していると考えます。
介護の現場では、相手の「ままならなさ」で自然と笑顔になる瞬間があります。そして、支援者である自分も、「うまくいかないこと」を認めてしまうと、そこには不思議な連帯感が生まれます。これこそまさに「相互ケア」と言えます。相手を支えているつもりが、相手を丸ごと受け止める、という姿勢から、支援者自身が徐々に肯定されていくのです。逆に「完璧なケアをしなければ」と力むとき、支援する方もされる方も、孤独になってしまいます。

この作品は、作家の村上春樹氏と心理学者の河合隼雄氏の対話で構成されます。村上春樹のアメリカでの体験や1960年代学生紛争、オウム事件と阪神大震災の衝撃から、箱庭療法の奥深さや一人一人が独自の「物語」を生きることの重要さを訴える対話形式のエッセイです。
対談の中で、村上春樹が「井戸掘り」について語るシーンがあります。私は一節から、ここでの「井戸掘り」とは自分自身を見つめる、ということの暗喩ではないかと感じています。
「結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるものではない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない」
ユマニチュードには「触れる」という要素もあります。触れるとは単なる作業ではなく、心を通わせるための絆を深める行為です。認知症などにより言葉の疎通が難しくなっても、ユマニチュードを通じて深いレベルでコミットするとき、支援者は「ただの作業員」から「魂の伴走者」へと変わります。他者に触れて肯定するという行為によって、被支援者も自分の欠落を認識し、愛する手掛かりになるのではないでしょうか。

ここまで、3つの物語を通して「ケアする側もまた、ケアされている」という相互ケアの姿を見てきました。ユマニチュードは、単なる精神論ではなく、それを具体的に実現するための「技術」でもあります。「4つの柱(見る・話す・触れる・立つ)」という道具を使い、一人一人の物語を丁寧に一歩ずつ進めていくこと。それは、相手を「高齢者」や「患者」という役割から解き放ち、一人の「人間」として再定義するプロセスです。
私たちが正面から見つめ、穏やかに話し、優しく触れるとき。そして、共に立つ喜びを分かち合うとき。そこには支援者と被支援者という境界線を超えた、人間同士の絆が生まれます。
私は、「ケアは鏡のようなもの」だと考えます。あなたが相手に注ぐ「人間らしさ」「愛情」「尊敬」は、必ずあなた自身にも「人間らしさ」「愛情」「尊敬」を注いでいるのです。
「自分は削られている」と感じたときこそ、このユマニチュードの視点を思い出してみてください。目の前の人の瞳の中に、あなた自身の尊厳もまた、確かに映っているはずです。」
参考文献 ・ユマニチュードとは、日本ユマニチュード学会、https://jhuma.org/humanitude/、(閲覧日:2026年1月29日)
・夜と霧(ヴィクトールフランクン) ・大豆田とわ子と三人の元夫(坂本裕二)
・村上春樹、河合隼雄に会いに行く(村上春樹)
